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2024年11月21日
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創刊にあたって

2010年03月05日
 「kader0d」は「odradek」のアナグラムである。「カデロート」と読む。オドラデクが自生的な混沌のメタファーであるとするならば、それに綴り替えという作為(再構成)を加えたカデロートは、いわば人間の創造的認識の象徴である。つまり、与件的事実に認識的秩序を与え、あるいは混沌とした作者世界からイメージや論理を紡ぎだす。詩と批評もまた認識的創造である以上、カデロートによって象徴される。

 k音の破壊からd音の停滞へ、そこからさらにr音の回転、t音の衝突へ。このような経路を辿るのはいったい何物(何者)か。音自体は半意味の状態にあるから、意味の先駆がこの経路を突き走るのかもしれない。破壊から衝突へと至るのは、破壊的創造をなす作者自身なのかもしれない。あるいは、純粋な音楽が、我々とは完全に無関係に流れてゆくのかもしれない。そしてこれらの子音に融合し、色彩と響きを与えるものとして、a音、e音、o音が子音的運動(破壊など)の様態(強さ、方向など)を規定している。

 大庭みな子は次のような文章を書いている。「不可解な言語に囲まれて、想像力で相手を理解しようとすることは、文学そのものだったような気がする。」(講談社文芸文庫「三匹の蟹」p293)ここで大庭は、文学を想像/創造の側面から捉えている。我々は通常、ある文章表現を見て、「これは文学的だ」と評したりする。その場面において、文学は静態的なテクストであって、ただ受動的に受け取られるに過ぎない。ところが大庭は、テクストが生成される動態的・能動的な創造の場面をとらえて、それを文学だと捉えているのだ。文学創造の運動は、それ自体として文学なのであって、特に人間がそれを「文学的だ」と捉える必要がない。鑑賞する側から、受動的に、静態的なものとして文学を捉える態度から、創造する主体として、能動的に、動態的に文学そのものであるというあり方へと転向すること。カデロートはそのような転向をも示唆している。

 カデロートを一般名詞のように扱ってきたが、ここからはそれを固有名として扱う。それは雑誌の名前であると同時に、同人の集合体の名前でもある。ここにあるのは事例化であり、メトニミーである。カデロート(一般名詞)の外延に含まれる個別事例の一つとして具体的な認識的創造がある。ここに事例化が働いている。具体的な認識的創造を行う者として、雑誌あるいは同人の集合体としてのカデロートがある。ここにメトニミーが働いている。我々カデロートの創造活動の基盤のひとつは、このような名詞領域の散策なのである。誌名の成立の段階ですでにレトリックが作用している。これは、これから創造されてゆく数限りないレトリックの予兆でもあろう。 カデロートは詩と散文(特に批評)の雑誌である。カデロートは、上記のように、認識的創造、破壊的創造、動態的即自的創造、意味拡張的創造、などを志向する。(記:広田修)
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