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2024年11月21日
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批評の可能性
2010年04月20日
私は大岡信を尊敬している。『蕩児の家系』『現代詩人論』を超える現代詩批評はないのではないかとすら思っている。大岡は、批評を、詩人論、個別的批評の立場で書いている。だが私は、批評はそれだけではないのではないかとも思う。
カントは批評を学(Wissenschaft)としての批評と術(Kunst)としての批評に分けた。学としての批評は、作品の個別性を度外視した理論的な批評であり、術としての批評は、個々の作品に即した批評である。大岡の批評は術としての批評にあたるが、学としての批評も批評として認められるべきであると考える。
また、バルトは「父」の記名なき批評を標榜する。作品を作者に還元するものではなく、作品を作者の占有から解放しようとする。むしろ作品はテクストとして、読者の受容行為において新たな意味を生産する。大岡はあくまで作品を作者の心理などに即して解読しようとするが、批評はそれだけではないのである。
さらに、シュレーゲルは、批評は個々の作品の個的理想を追求すべしと主張する。批評は、作者以上に作品を理解し、作品の失敗を明らかにし、ありうべき作品を作り出すことである。そして、批評自体が文学でなければならないとする。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』は『ハムレット』の批評である。
現代詩批評は、大岡に代表されるように、術としての批評、詩人論、評論としての批評に傾いている。だが、上でみたとおり、批評の可能性としては、ほかにも、(1)学としての批評、(2)作品論としてのテクスト批評、(3)文学作品としての批評、がありうるわけで、それらの可能性を排除してはならないと思われる。
(広田)
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