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2024年11月21日
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難解さ
2010年03月24日
難解な詩は良くない、と言う人がいる。恐らく彼らは、表現というものは伝達されなければならないもので、伝達がなされないような難解な詩は、表現として不完全だ、とでも言うのであろう。いくら深いことを言ってもそれが伝わらなければ無意味である、と。あるいは、芸術は普遍的でなければならない、などと言うかもしれない。共同体を確固たるものにする紐帯としての芸術、議論の基礎として皆に共有されなければならないものとしての芸術、そういうものに価値を見出すのだろう。さらには、功利主義などを持ち出して、より多くの人を感動させる分かりやすい詩ほど、最大多数の最大幸福を導く善なのだ、などと言うかもしれない。
それに対して、いや、難解なものをかみ砕くことも必要だ、とのたまう人もいる。世の中には難解なもの、典型的にはそれは他者であるが、それがうようよいるわけで、それを避けて通ることはできない。難解なものを避けるのは、他者から逃げることである。人生において他者から逃げることなどできない。
だが私が思うに、難解なものが重要であるのは、難解なものと接することにより、自分が弁証法的に高められるからだと思う。松浦が言うように、難解なものとの対峙は自己同一性を危うくする。松浦はその危機をただ楽しむことを主張したが、私はその危機を危機として受け入れたうえで乗り越えることを主張したい。難解なものを理解しようと努力するとき、人間は新しい思考方法に気づいたりする。また、難解なものを自分なりに理解したとき、そこで新しい認識の仕方を手に入れるわけである。難解なものとは、自分があらかじめ持っていた認識図式に当てはまらないものである。その難解なものを自分のものにするということは、自分が持っていなかった認識図式を手に入れるということであるのだ。他在における自己還帰、すなわち、難解なものを理解しようと努力することで自己が変容し、その変容した自己を既存の自己に組み入れること、そのことによって、新しい思考方法や認識図式を手に入れ、自分が高められること。そこに難解なものと接する意味がある。
(広田)
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