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2024年11月21日
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島野律子小感

2011年10月21日


島野律子小感
                  広田修
 
0.紹介
 
 島野律子の作品は以下のホームページで読める。
「弱拡大」
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~babahide/index.html
とりあえず、「十年の花」の部分を引用するので、島野がどのような詩人であるか大まかなイメージをつかんでもらいたい。
 
風の運ぶ湿気に椅子の上のからだはしらしらと腐った匂いを吐く。自分の力で自分を動かしていられた日々なんてあったはずもないのに微笑んで懐かしがる。薄い影の伸びるテーブルに落ちていく砂に湿気は容赦なく張りつき、からだは水の入った袋と同じになる。花は遠くに咲き続ける。あの角の明かりはやさしい。街燈のない道を通いつづけた長い時。たしたりひいたりだ。
 
 
1.遊戯の快楽
 
q1 夏の足首に結ぶ雨雲の細い影が引きずる冷めた匂い。(「遠回り」より)
 
 世界の事物が相互に複雑に関係しあっていることを、おそらく島野は熟知している。そして島野は、「匂い」を起点にして、どの関係を用いて、どの事象と接続させるか、そして接続された事象からさらに別の事象へとどのように接続させるか、その選択を楽しんでいる。かくして、「夏」「足首」「雨雲」「影」が、「匂い」へと、多様な関係と間接性において遊戯的に接続されているのだ。天才が楽しみながら難解なパズルを解くように、世界の複雑な関係構造を熟知している島野は、楽しみながらそれらの関係の中の適当なものを選択して詩行として放り出す。島野は詩作においても遊戯の快楽の味をしめているのだ。
 
 
2.官能的な蛇行
 
 今の引用部(q1)では、詩行が七曲りに蛇行している。まず「夏」という大きな時空間の広がりから「足首」というその局部へと、全体から部分への移動。さらに地上的な「足首」から天空の「雨雲」への高速の垂直移動。などなど。これらの移動は折れ線によるカキカキしたものではなく、むしろ「蛇行」と呼ぶにふさわしい。つまり、曲線的に、余裕を持って、自然的に、弾性を持って蛇行するのである。
 というのも、言葉にまつわる意味や印象、イメージというものは有機的な広がりを持つもので、単純な幾何学ではとらえるのが難しいからである。有機的な広がりから有機的な広がりへと移動する仕方も、それらの広がりの有機性の反射を受けて有機的にならざるを得ない。
 さらに、描かれている情景が生活に密着したものであることも、詩行を蛇行させている。生活は我々に親しく、我々の有機的で曲線的な身体や行為、思考などによって日常的に作り出されるものであり、また我々の有機的で曲線的な身体などを日常的に包み込んでいる。生活は人間の自然性の、決して陥落することのない最後の砦である。生活を描く詩行は、生活が有機的で曲線的で自然的である以上、蛇行する。
 
q2 掃除嫌いは治らないよ。(「十年の花」より)
 
 島野は生活を土台に詩を書いている。生活の事物の持つ様々な距離を一度剥奪し、改めて島野らしい距離を与える。特に、遠くにあるものを近づけたり、近くにあるものを遠ざけたりする。つまり、あまり気づかれないものに気づき、自明なものを対象化したりする。q1だったら、匂いの繊細なあり方に気づいているし、q2だったら、自明な日常の発語を改めて対象化している。
 生活を描くので、自身の身体、そして感覚、さらに肉声が詩の中に入り込みやすい。q1だったら、「足首」や「匂い」が身体的・感覚的であり、q2では肉声がそのまま詩行になっている。この身体性・感覚性が、「蛇行」という移動のもつ生命性とあいまって、詩行の蛇行を少なからず官能的にしている。
 
 
3.透明な物質
 
q3 雨どいに身を寄せる濃い色の花びらをはがす道具を、手に入れなければ。(「拭く」より)
 
 ここでは、「雨どい」「花びら」「道具」という物質が登場しているが、それらが複雑に、蛇行的に関連付けられることで、互いの物質性を薄めている。「濃い色の花びら」において、「濃い色の」という修飾語は「花びら」の物質性を強めているが、にもかかわらず、一息で読ませられるパッセージの中で緊密に連なった「雨どい」「花びら」「道具」という物質たちは、互いに存在(あるいは物質性)を主張し合うことによって、互いに存在の強度を相殺し合い、存在を薄め合っているのだ。このような蛇行的な長い修飾においては、物質たちは互いの存在の強度と物質性を打ち消しあい、それゆえ、比喩的に言えば、物質たちは透明度を増すのである。
 さらに、今の引用部(q3)では、「道具」のイメージはそのまま直接には伝達されていない。そうではなく、「道具を手に入れなければ」という義務感が直接伝達されている。q3では「道具が存在する」ことや「道具が働きかける」ことが主張されているのではない。つまり、q3における詩行の主体は「道具」ではない。主体はあくまで義務を感じている作者であり、「道具」は作者の手に入れるべき対象でしかない。つまり、q3において一番強度を持っているのは作者の義務感であり、「道具」は対象化されることにより強度を下げ希薄化する。あるいは透明化する。
 このように、島野の作品では、物質は緊密に連結されることにより互いに存在の強度を相殺し合い、あるいは主体の精神作用が明示的に物質を対象化し、それによって物質が透明化されていることが多い。
 
 
4.穏やかな敵意
 
 島野の詩的な習慣的作用の及ぶ「生活」とは、プライベートで孤独な生活である。他人というもの、社会というものは、何かによって切り落とされてしまったかのように、彼女の詩にはあまり明示されない。彼女は実生活では当然多くの他人たちと関わり、おそらく公的な組織にも所属しているのだろう。だが、彼女の詩空間には、社会的な硬くて疲労させるもの、そして未知の領域を多分に抱懐する他人というものの占める領域が少ない。羊歯植物が湿って目立たない場所でしか生育しないように、彼女は詩の展開する領域をプライベートで孤独な生活領域に基本的に限定している。彼女の詩空間は生活で充満していると同時に、社会や他人の不在で充満している。社会や他人の不在は真空のように鋭く彼女の生活の基底となり、彼女の生活の輪郭を際立たせている。
 私はこのような限定に、居心地の良さを感じると同時に、穏やかな敵意を感じる。何事かを選好するということは、他のものを穏やかに排除するということである。そこには穏やかな嫌悪や穏やかな敵意というものが働いている。島野は無意識的に、自分を疲れさせる社会や未知を多く含む他人というものに対して穏やかな敵意を抱いているのではないか。そして、プライベートで孤独な生活領域に限定された詩を書くことで、その敵意の様々な変奏を、詩の裏側の目立たないところに小さく貼り付けているのではないか。
 さらに、島野の詩における「生活」は主観的でもある。
 
q4 獣の倒したカップの陰に、髪の絡んだ荒れたうなじに、飽きずにつもる埃の元は、あの月だったのに。(「窓の曇り」より)
 
ここで書かれている埃と月との関係は、一般的に承認されるものではない。部屋の埃が月からやって来たことを信じる人はほとんどいないはずだ。埃が月からやって来たという関係は、主観的に見出された関係であり、客観的な関係ではない。島野はこのような主観性に満ちた生活を描いている。
 
 
5.外界と内界の融和
 
 島野のプライベートで孤独で主観的な生活空間には、当然、感覚や認識や疑問や断言など様々な精神活動が様々な色相を帯びて含まれている。だが、島野の生活空間を外界/内界という単純な二分法で整理してしまうのは適切でない。
 
q5 道の下を流れる水音を踏む。(「春先」より)
 
例えば、この詩行は一見外形的な状況・行為を描写しただけのようにも思える。だが、本当は水音など聞こえていないのかもしれない。地面の下には地下水の流れがある、という知識から、道の下にも水が流れていることが推論され、それに伴うはずの水音のイメージが連想作用の結果として作者の脳裏に浮かび、それがあたかも本当に聞こえてきたかのように書かれたのかもしれない。つまり、「水音」は外界にあるというよりもむしろ、作者の知識・推論・連想によって内界に生み出されたと考えることもできるのだ。外界にあるかのように描かれたものが実は内界に由来し、内界に由来しながらも外界にあるかのような説得力を持つ。
 島野は生活を細かく描くので、当然作品には外界の物質や外形的な行為が多く描かれ、それらの「外であること」が強く主張されている。しかしそれら「外なるもの」の多くが内面世界の働きによって、そのあり方が部分的あるいは全面的に規定されているのだ。
 内界と外界の相互干渉により、物質や行為は湿度を持ち柔らかさを増している。島野の生活空間における「外なるもの」は、決して我々を拒絶しない。島野はあらかじめ「外なるもの」のなかに滲み込んでいて、その抵抗力や不可解さを骨抜きにしてしまっている。あるいは、抵抗力や不可解さを我々に親しいものへと変化させてしまっている。そして、我々に親しくなった「外なるもの」は、我々と共生するものとして、一層その「外であること」、そして実在性を強めていく。
 
 
6.毛細血管の流れ
 
 島野の生活空間には、隅々まで「文学的な毛細血管」が行き渡っている(それゆえ繊細な作品が可能になっているのだ)。この毛細血管を通って、詩人の血液は、その都度生活空間の適当な局所に流れてゆき、詩行の素を摂り入れて、一つの統一した流れへと流れ込んでゆく。血液の流れ自体は文字として現れないが、文字として現れないところに文字として現れるものを可能とする流れがあることは重要である。
 
q6 振返る木の枝が増えていく朝に、立ち止まる余裕のない足先ばかりを目にしている。(「雨の駅」より)
 
 まず、島野の生活空間が主観的であることを確認しておこう。木の枝は客観的には振返らない。だが、島野の主観的な生活空間においては、木の枝は振返るのである。そして、木の枝が振返ることをも含む生活空間の至るところに、島野の詩人としての毛細血管が張り巡らされていて、時間や時間の態様、視覚とその対象、またその対象の態様を摂り込んでいくのだ。
 だが、島野の作品では、この血流はそれほど順調ではない。まず「朝」の属する領域から「朝」が摂り込まれていると思われる。だが、摂取された「朝」を単独で統一的な流れ(本流)へと送り込んでいるのではない。「朝」を摂り込んだ流れはしばし停滞し(より繊細な表現をするためにそれだけで詩行とすることが留保されるのだ)、今度は「朝」の属していた領域に隣接する領域から「木の枝」が摂り込まれる。そして、「木の枝」を摂り込んだ流れが停滞している隙に、今度は「振返る」「増えていく」が摂り込まれる。その摂取が終わると、ようやく一時的に停滞していた流れも再び動き始め、本流において「振返る木の枝が増えていく朝に」という結合が生じる。島野の詩人としての血流は決して等速のものではなく、適切な材料を得て適切な結合を得るために適度に停滞しながら流れている。生活を異化するためにはこのような停滞が必要なのである。
 
 
7.物質との距離としての詩
 
 島野は物質に対して様々な距離をとることで、物質と戯れている。物質の本質や質感をとらえようなどといった無駄な気負いはなく、むしろ先述したように物質を透明化することで、逆に物質の持つ静寂と神秘を照らし出すことに成功している。もはや我々にとって物質は、自由に透過することができ、自由に動かすことができる遊具のようなものである。
 
q7 体が出来ないことを、しつづける、楽しみ。(「春になる」より)
 
 ここに一方の極がある。島野はここで純粋に精神となっていて、物質を未明の淵へと限りなく深く沈めている。つまり物質を無限遠へと遠ざける楽しみである。
 
q8 日の射す方向を平気で東だと思う体で、それから北は? 正面。(「美麗島」より)
 
そしてここにもう一方の極がある。島野はここで思惟を物質に帰属させている。つまり、精神を物質化して作者が物質そのものとなり物質との距離を無化する生命的認識である。
 島野にとって詩とは物質との距離であり、島野の生活、さらに生命の営みは、その距離の多様性に反映されている。島野と物質の間にはそれぞれの距離があるわけだが、この距離を満たしているのが彼女の文学的創造力である。この文学的創造力が、物質を触知し(あるいは無視し)、物質との距離を調整し、場合によっては物質に主観性を流し込む。
 
 
8.幸福な疑問
 
 冒頭に掲げた「十年の花」の部分を読み返してほしい。島野の詩には強い情緒はほとんど現れない。島野の感情は、平常心を中心にわずかに振動するにすぎない。そして島野の平常心は、どちらかというと幸福の方に傾いている。あるいは、平常心を保てるということがわずかな幸福を生み出している。人間の平常心というものは概して幸福なものである。
 
q9 なぜ、苦しそうな顔をしないのだろう。(「草の匂い」より)
 
 平常心からわずかにずれる感情として島野の詩に比較的多く現れるのは、疑問に伴う感情である。そして、島野の疑問はたいてい脈絡もなく提示され、基本的に答えが伴っていない。
 疑問には齟齬感、不条理感が伴うこともあれば(「なぜ」という疑問の場合)、好奇心や知的な楽しみの予感が伴うこともある。いずれにせよ、知ろうとしても答えが得られないという不満足が伴う。
 島野の疑問は不意に気づかれるものであり、またその答えは追求されないので満足させられることがない。これは存在の根源を問うような大げさな疑問ではなく、むしろ、内界と外界とが幸福に融和する液状の空間において、内界と外界との微妙な均衡の不意の破れから生ずるさざ波のようなものである。そして、このさざ波は限りなく遠くまで延々と渡っていく。
 島野の疑問は力学の結果であって、力学の根源を問うものではない。だから世界との深刻な違和をきたさない。そして、齟齬感や不満足が伴うとしても、それらの暗い影はむしろ幸福の陰影として幸福の輪郭を際立たせる。島野の疑問はあくまで幸福な疑問なのである。
 
 
9.特性の拡散
 
 遊戯の快楽、官能的な蛇行、透明な物質、穏やかな敵意、外界と内界の融和、毛細血管の流れ、物質との距離としての詩、幸福な疑問。このような側面から島野の作品を語ってきた。私は、これらの特性の間に、無理に内在的な連関を見出そうとは思わない。あるいは、これらの特性を根源で支えている唯一の真実のようなものを無理に見出そうとは思わない。そうではなく、様々な特性がそれぞれの方向に拡散しているという現象、そしてその現象を可能にしている力に注目したい。
 島野の作品では、一つの城壁(意外と軽い)のように言葉が慎密に積み立てられていて、言葉同士の隙間が圧縮されている。私はそこに、押し縮められたバネの持つような潜在的な起爆力を感じる。だが、普通に作品を読んでいる限り、この起爆力は永遠に開放されることがないようにも思える。バネは永遠に押し縮められたままのようにも思えるのだ。
 しかし、これまで見てきたように、島野の作品は様々な方向に向かって多様な相貌を見せている。様々な方向へと特性を拡散させている。この特性の拡散こそが、島野の詩の持つ潜在的な起爆力がひそかに顕在化したものなのではないか。島野の詩は密度があるからこそ、特性を拡散させる必要があったように思えてならない。定型があるからこそ俳句は多様性へと向かおうとする。それと似たような事情があるのではないか。
 
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