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2017年03月23日
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現代詩文庫を読む

2010年12月30日
未詳24という、主に若年層が閲覧する、携帯向けの詩のサイトがあります。
ip.tosp.co.jp/i.asp
ここで、増刊を担当しています。
mbbs.tv/u/read.php
その中で、現代詩文庫を読んでいく連載を始めました。
mbbs.tv/u/
kader0d vol.5で僕は田村隆一を扱いましたが、主にフィクション論との関係で論じたので、田村の全貌を描くことは初めから目標として設定していませんでした。
ですが、この連載では、初心者に田村隆一を理解させることを目的としています。僕が5号で田村論を書くにあたっていろいろ考えたこと、読んだ資料、それがこの連載に反映されています。
なので、5号の田村論と、ここの連載は表裏となっています。
ぜひ読んでみてください。
そして、5号をお読みでない方も、この連載をお読みになって興味を抱いたら、ぜひ5号をお求めください。

(広田)
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必然性と意匠の彼方に

2010年07月02日
 多くの詩人は、何らかの必然性を持って詩を書いている。つまり、このテーマについては書きたい、この体験は書きたい、そういった、内的な必然性に従って詩を書いている。一方で、その必然性によって生み出される言葉は何らかの意匠に従っている。この意匠は、たいてい先行する詩人の影響を受け、詩の世界でよいものだと認知され、なおかつ詩人の個性にも由来するものだ。必然性のみで生み出される生のままの言葉は詩としての体裁を成さない。かといって意匠の快楽によってのみ書かれる詩には説得力や存在意義が乏しい。だから、詩人は必然性と意匠の間で揺れ動くことになる。

 ところが、この必然性と意匠との間の葛藤がひとつの次元で完結しまっている詩人を多く見かける。つまり、必然性や意匠が発展していかず、自己模倣や他者模倣を繰り返しているのである。そういう詩人を見かけるとき、そこにその詩人の限界が見てとられる。その閉塞性を打破するためには何が必要か。

 そこで必要となってくるのが思想やコンセプトである。つまり、詩とは何か、詩とはどうあるべきか、そういう問いに対しての理論的な説明である。これは、必然性と意匠のかなたにあり、なおかつ、必然性を変貌させ、また意匠を変貌させることができる。多くの詩人が陥りがちな自己模倣や他者模倣の閉塞性を打破するには、その詩人が、詩とは何かということを反省しなければならない。

 例えば、刹那的な感受性のみを詩に固定していた詩人がいたとする。ところがあるときその詩人がひどい絶望に襲われ人生に沈潜したところ、人生こそが詩の源泉として面白いのではないかという思想を抱いたとする。すると、その詩人にとって詩を書く必然性は変わってくる。人生を描きたい、そういう必然性に従って詩を書くようになる。また、その際彼の取るべき意匠も変わってくる。人生を描くためにはいかなる意匠をとったらよいか、そういう思考に従って彼の意匠は変わる。

 必然性と意匠とが一つの次元で閉塞してしまっている詩人に必要なのは、その対立軸の彼岸にある思想やコンセプトという動因だ。それが必然性や意匠を変質させ、詩人を閉塞状態から救う。
(広田)

詩の存在意義

2010年06月13日

 小説の目的が人生の本質を描くことにあるとするならば、小説の歴史は終焉を余儀なくされる。なぜなら、人が人生を描こうとして、その根源的な現れ方を言葉に表そうとするならば、それはもはや小説ではなくて詩になってしまうからだ。小説の限界は意味不明になれないことにある。小説の限界は、伝達可能であり既存の概念によりかかっていることにある。ところが人生の本質を描くためには既存の概念では足りない。概念に回収されない人生の本質を描こうとするならば、必然的に言葉は詩になるのである。

 小説の目的を本質的に達成するためには、小説は小説であり続けることができない。それは途中から詩になってしまうのである。そこに詩の存在意義がある。確かに、逆に言えば、詩は物語を上手に語ることもできないし、明確に意味を伝えることもできない。だが、小説が既存の概念を越えようとして挫折するとき、その挫折を補うものとして詩は存在意義がある。詩がなしえない物語や概念的記述は小説がやればいい。

 つまり、詩と小説は人生の記述において互いに補い合っているのである。物語や伝達可能性は小説が担い、本質のありのままの言語化は詩が担う。この役割分担において詩は存在意義がある。だから、小説の方が詩よりも偉いわけでもないし、詩の方が小説よりも偉いわけでもない。

(広田)

詩のアンチノミー

2010年05月18日
 萩原朔太郎は、『月に吠える』の序において、恐水病患者が、自分が水を恐れる感情を他人に伝えるとしたら、それは詩でしか行えない、と書いている。要するに、詩は言葉にできないことを伝えることができる、と考えているのだ。ところが、これは矛盾している。この矛盾は中学生にでもわかる。

A 詩は言葉である
B 詩は言葉にならないことを伝える

 AとBが矛盾することは明らかである。言葉は言葉にならないことは伝えられない。詩人は昔からこのような中学生にでもわかるような二律背反(アンチノミー)に命をかけてきたのである。

 ところでこのアンチノミーを打開する策はないか。実は三つほどあるのだ。

(1)Aを否定する。つまり、詩は言葉ではなくイメージであるとか音であるとか感情であるとか主張するのである。
(2)Bを否定する。つまり、言葉の指示できる範囲を広げることで、言葉はあらゆる物事を伝えることができると主張するのである。言葉にならないことなど存在しない。だから詩は何でも伝えることができる。
(3)Aで言われている「言葉」とBで言われている「言葉」は別物であると主張する。Aで言われている言葉とは、言葉にまつわるあらゆるもの、イメージや感情・関連する概念などを含み、Bで言われている狭義の言葉とは異なると主張するのである。

(広田)

批評の可能性

2010年04月20日

 私は大岡信を尊敬している。『蕩児の家系』『現代詩人論』を超える現代詩批評はないのではないかとすら思っている。大岡は、批評を、詩人論、個別的批評の立場で書いている。だが私は、批評はそれだけではないのではないかとも思う。

 カントは批評を学(Wissenschaft)としての批評と術(Kunst)としての批評に分けた。学としての批評は、作品の個別性を度外視した理論的な批評であり、術としての批評は、個々の作品に即した批評である。大岡の批評は術としての批評にあたるが、学としての批評も批評として認められるべきであると考える。

 また、バルトは「父」の記名なき批評を標榜する。作品を作者に還元するものではなく、作品を作者の占有から解放しようとする。むしろ作品はテクストとして、読者の受容行為において新たな意味を生産する。大岡はあくまで作品を作者の心理などに即して解読しようとするが、批評はそれだけではないのである。

 さらに、シュレーゲルは、批評は個々の作品の個的理想を追求すべしと主張する。批評は、作者以上に作品を理解し、作品の失敗を明らかにし、ありうべき作品を作り出すことである。そして、批評自体が文学でなければならないとする。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』は『ハムレット』の批評である。

 現代詩批評は、大岡に代表されるように、術としての批評、詩人論、評論としての批評に傾いている。だが、上でみたとおり、批評の可能性としては、ほかにも、(1)学としての批評、(2)作品論としてのテクスト批評、(3)文学作品としての批評、がありうるわけで、それらの可能性を排除してはならないと思われる。

(広田)

詩的想像力

2010年04月07日
 ディルタイによると、詩的想像力はイメージの変容(Metamorphose der Bilder)をもたらすが、変容の法則には三つある。排除、強化、補完の法則である。

 排除の法則とは、注意が表象の中から中心的なものを選び出しそれ以外を排除する(ausschalten)ことである。強化の法則とは、作家たちが実際の経験を感情の影響の下で強めることである。排除と強化の法則によってイメージの核(Kern)が形成されるが、これはまだ現実の戯画に過ぎない。ここに補完の法則が働くことにより、イメージが獲得された心的連関(erworbener seelischer Zusammenhang)の構造を具体化・象徴でき、文学作品に生命を与えることができる。補完の法則とは、心的連関に由来する新しい構成要素がイメージの核に入り込むことである。

 だが、これは抽象論であり、なんとなく納得はするのだが、では具体的にどうなるかといわれるとよく分からない。それでは少し具体的に考えてみよう。

 「鳥たちがいっせいに墜落してきた」という文を作家が詩的想像力により創造するとする。まず、作家は、「鳥たち」「いっせいに」「墜落する」というイメージを獲得する。「鳥たち」のイメージを獲得するとき、そこには周りの木々や建物のイメージも付随していたかもしれない。だが、それら余分なものを排除することにより、「鳥たち」のイメージが得られる。次に、作家は、この文を書くためには、鳥たちの墜落のイメージをありありと鮮烈に思い描かなければいけない。ここに強化の法則が働いている。さらに、作家は鳥たちが墜落している状況を現実には見ていないだろう。「鳥たち」のイメージの核に、「墜落」のイメージが心的連関から補完されることで、この文は出来上がっている。

(広田)

美学と批評について

2010年03月28日

 「美学」という日本語には二つの意味がある。

(1)美的現象に対する哲学的アプローチ
(2)何が美であるかについての価値観

「私は大学で美学を専攻している」というときは(1)の意味であり、「彼には男の美学がある」というときは(2)の意味である。

 同じように、批評には、(1)理論的解明と(2)価値的判断の二つの側面がある。理論的解明によっては作品の説明が可能になり、価値的判断によっては作品の評価が可能となる。そして理論と評価とは、理論内部で使われている概念によって結びついていることが多い。

 例えば、カントは、「天才」とは、ある規定された概念を感性化する際に、悟性がその概念のもとで思考していた以上の構想力の表象、すなわち「美的理念」を作りだす能力だと言う。ここまでは美学理論である。ところで、この美学理論には「天才」という言葉が使われている。そして、一般に天才とは望ましいもの、芸術家が備えるべきものと思われている。だから、芸術家はそのような「美的理念」を作りださなければならない、美的理念を作り出せていない作品には価値がない、という価値判断が生じる。

 つまり、美学理論は、当初は美の説明のための理論であるが、その理論の中に「天才」のような価値的な概念が含まれることにより、その概念にまつわる価値判断を介して、価値判断についての基準をも提供するものとなっている。

(広田)

難解さ

2010年03月24日

 難解な詩は良くない、と言う人がいる。恐らく彼らは、表現というものは伝達されなければならないもので、伝達がなされないような難解な詩は、表現として不完全だ、とでも言うのであろう。いくら深いことを言ってもそれが伝わらなければ無意味である、と。あるいは、芸術は普遍的でなければならない、などと言うかもしれない。共同体を確固たるものにする紐帯としての芸術、議論の基礎として皆に共有されなければならないものとしての芸術、そういうものに価値を見出すのだろう。さらには、功利主義などを持ち出して、より多くの人を感動させる分かりやすい詩ほど、最大多数の最大幸福を導く善なのだ、などと言うかもしれない。

 それに対して、いや、難解なものをかみ砕くことも必要だ、とのたまう人もいる。世の中には難解なもの、典型的にはそれは他者であるが、それがうようよいるわけで、それを避けて通ることはできない。難解なものを避けるのは、他者から逃げることである。人生において他者から逃げることなどできない。

 だが私が思うに、難解なものが重要であるのは、難解なものと接することにより、自分が弁証法的に高められるからだと思う。松浦が言うように、難解なものとの対峙は自己同一性を危うくする。松浦はその危機をただ楽しむことを主張したが、私はその危機を危機として受け入れたうえで乗り越えることを主張したい。難解なものを理解しようと努力するとき、人間は新しい思考方法に気づいたりする。また、難解なものを自分なりに理解したとき、そこで新しい認識の仕方を手に入れるわけである。難解なものとは、自分があらかじめ持っていた認識図式に当てはまらないものである。その難解なものを自分のものにするということは、自分が持っていなかった認識図式を手に入れるということであるのだ。他在における自己還帰、すなわち、難解なものを理解しようと努力することで自己が変容し、その変容した自己を既存の自己に組み入れること、そのことによって、新しい思考方法や認識図式を手に入れ、自分が高められること。そこに難解なものと接する意味がある。

(広田)

colors of the wind

2010年03月13日

 「colors of the wind」は、ディズニーのアニメ「ポカホンタス」に出てくる曲で、この曲はアニー賞、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞、グラミー賞を受賞している。acidmanがアルバム『equal』でカバーしていて、その存在を知った。インディアンの娘が歌いあげる曲。この曲の歌詞がすごい。Stephen Schwartz作詞。

The rainstorm and the river are my brothers(大雨も川も私の兄弟)
The heron and the otter are my friends(アオサギもカワウソも私の友達)
And we are all connected to each other(みんな一つに結ばれている)
In a circle, in a hoop that never ends(終わりのない円い輪のように)

 ここにあるのは、現代人とは全く違った感受性である。雨や川や動物は、没交渉な客体として感受されているのではなく、「私」とコミュニケートし交感しあう同朋として感受されている。現代人の感受性ではせいぜい「アオサギの姿が美しい」くらいのことしか感じられなかったり、さらにはそれを機械的に分析することしかできない。だが、ポカホンタスは「アオサギは今日は機嫌がいいだろうか」とか「新しい川と仲良くなれてよかった」という感じ方ができるのだ。

 固定された感受性をもとに、固定されたスタイルで延々と自己模倣的な詩を書くのも一つの詩人の在り方だと思う。だが、まず第一段階として、感受性を固定したままでもスタイルを変えてみること。次に第二段階として感受性自体を根本的に変革させること。これができるのが、真に詩に対して貪欲な詩人ではないのだろうか。

 ポカホンタスの感受性を前にして、私は現代人としての自らの感受性がさわやかに崩壊するのを感じた。私は、現代詩や近代詩にはない、全く新しい感受性を戦慄とともに発見し、これを自分のものとするのは、自分の人間としての可能性を広げると感じた。自然との対話的な交感において初めて感受されるものは、すべて私にとって真新しく、美しい。感受性自体を変革し、偏狭な時代的なスタイルから抜け出すこと。そこに詩の大きな可能性はあるのではないか。

(広田)

詩と散文

2010年03月08日
 kader0dは詩と散文の雑誌だが、「詩と散文」という書き方は便宜的なものであり、実際はそんなにラフに文学をとらえることはできない。

 「詩と散文」という二分法はもはや無効である。「詩と散文」という二分法は、詩全般に共通する特徴と散文全般に共通する特徴を対立させ、その差異を問おうとするものである。だが、詩全般に共通する特徴、散文全般に共通する特徴など存在しないのである。よって、詩と散文を無批判に、ラフに対置させる態度には問題がある。

 「詩」という概念には、物語的なものと非物語的なもの、論理的なものと非論理的なもの、感受性重視のもの、レトリック重視のもの、コンセプト重視のもの、人生重視のもの、など多様なものが含まれている。だから、詩と散文を対置させるなら、それぞれの特徴をもった個別の詩と散文とを対置させなければならない。同様に、「散文」という概念には、文学的なもの、教化的なもの、論理的なもの、数学の証明のように形式的なもの、事務的なもの、など多様なものが含まれている。

 だから、詩と散文を比較したいならば、個別の詩と個別の散文を比較するしかない。物語的な詩と論理的な散文を比較したり、非論理的な詩と文学的な散文を比較したり、人生重視の詩と数学の証明を比較したりする。そのような細密できめ細かい比較においてしか、「詩と散文」の比較は成立しえない。

 無批判に、ラフに「詩と散文」を対置するのではなく、詩の個別的な構成要素、散文の個別的な構成要素を取り出して、それらを多様な組み合わせにおいて比較する。詩と散文の区別について論じるならばそのような方向性が妥当だと思われる。

(広田)
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